Yksinäisyydestä ja yhteydestä – Luuk. 15:1–2

Valon vaihtuessa toista sataa ihmistä ylittää suojatien. Kävelykadulla tulee vastaan tuhat toisensa perään. Jo yhdessä kaupungin monista keskustoista yksittäinen kulkija häviää ihmismassaan. Vaikka hän olisi laittautunut miten erikoisen näköiseksi tahansa, kukaan ei pane häntä merkille. Kukaan ei myöskään huomaa, jos hän on tavallinen, tai jos häntä ei ole ollenkaan. Miljoonien joukossa moni on kovin yksin. […]

献血者(1ペトロ1:18−10)

「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にま すます豊かにされますように。」(2ペテロ1:2) アーメン。 普段は、人間は誰でも、怪我をしないように注意しています。小さな子どもさえ分かっていますが、幼稚園の庭でこけてしまって、足から血が出るというのは楽しいものではありません。傷ついたり怪我したりすることより我が身を守ろうとして、そしてそれを養って、いたわるようにしているのです。 一方では、進んで自分の体をある程度傷つけさせる人もいます。どういうことかと言いますと、腕を刺されて、献血する人がいます。病気や怪我などで輸血を必要としている患者さんのために、自分の体の中で流れている、大体5リットルの血液の一部を献げるのです。手術を受ける人に、または月足らずで生まれた赤ちゃんに、或いは交通事故にあった人にこの他人からの血液が与えられますと、彼らの尊い生命を救うことができます。なぜなら、聖書にも記されている通り、生き物の命は血の中にあるからです(レビ記17:11)。 献血というのは、自分の利益のためにすることではなく、金儲けのためにすることでもありません。自分の尊い血を献げたら、赤十字社からの小さなおまけ以外には、献血する人は何ももらわないのです。献血が終わったら、残るのはただ、人のために何か大切なことをしたという思いだけです。 さて、神の御子がこの世に来られ、乙女マリヤから肉体を受けて人となられました。肉体をお受けになったのですから、もちろん体の中で血液も流れていました。なぜこのように受肉なさったかと申しますと、私たちを救ってくださる、至高の献血者になるためでした。イエス・キリストが父なる神の御心に従っておられ、自発的に律法の下に服し、完璧な服従をもってそれを満たしてくださって、我々の救いのために進んで傷つけさせられたのです。しかし、私たちが赤十字社の献血ルームで、針で刺されて血を流すことと違って、キリスト様がご自分を完全にお与えになりました。主は鞭打たれ、いばらの冠で傷つけられて、また釘で打たれて十字架につけられて、そして槍で脇腹を刺されるために、ご自分のお身体をお与えになったのです。そのお身体の中で流れていた血液の一部だけでなく、その全部を十字架の上で流してくださった訳です。イエス様の十字架はまさに赤十字そのものだったと言えるでしょう。しかし、なぜこういうことをなさったかと言いますと、我々人間は皆、体と血をもって死という病気にかかっているため、外からの助けが必要だったからであります。 このように、至高の献血者であられるイエス・キリスト様も、ご自分の利益のために血を流したのではありませんでした。むしろ、彼の尊い血によって我々が死の中から贖われるために血を流してくださり、命を捨ててくださったのです。このようにイエス様は身代金である血を払って我々を買い取られたのです(1コリント7:23)。ところが、普通の献血者と違って、犠牲となられたことによってイエス様は何かをもらいました。何かと言いますと、一番愛しておられるものをもらったのです。それは、あなたのことです。イエス・キリスト様は我々の生命を救ってくださったお方で、しかも、我々は彼の霊、プネウマ(πνεῦμα)を受けることができるように、彼は十字架上で頭を垂れて、ご自分の息、プネウマを引き取られた訳であります(ヨハネ19:30)。 そして、罪と死に打ち勝ったこのキリスト様は今日も、最高の献血運動をしておられます。と言いますと、聖壇の礼典において、ゴルゴタで流してくださったまことの血と、十字架の上で捧げたまことのお身体とを我々に与えてくださいます。我々キリスト者がこれを食べて飲んで、全ての罪が赦されるように与えてくださるのです。こうしてキリスト様が、私たちを日ごとに生かしてくださり、聖なる体である教会のメンバーとして支えてくださっておられます。しかも、教会という主の体のメンバーとして私たちはこのように、聖霊の御働きである主の血液の循環の一部となります。こうして主が私たちを救ってくださいます。そしてある日、我々の体が亡くなっても、主イエス・キリストの血は我らの命で、しかも永遠の命であるということが確かであります。 お祈り致します 愛する天のお父様。私たちは生れながら罪深くて、思いと言葉、行いとによって多くの罪を犯しましたが、こういう私たちの罪が全部赦されて、私たちが救われるように、あなたが愛する独り子をこの世に送ってくださいました。私たち人間のために、御子が人間となられ、そして、私たちが贖われるように尊い血を流してくださったのです。感謝致します。我々は今日も、この確かな救い主を信じ、御言葉を聞いて、そしてまた日曜日の礼拝で、まことの体と血という素晴らしい聖礼典に与って、全ての罪が赦されたと確信することができますように、お助けください。御子イエス・キリストのお名前を通してお祈り致します。アーメン。 (神戸ルーテル神学校 チャペル・タイム 2017年9月15日) (Puhe on pidetty Koben luterilaisen teologisen seminaarin aamuhartaudessa, Japanissa 15.9.2017)

Jeesus ottaa luokseen syntisiä – Luuk. 15:1–2

Jeesus ei ole sellainen kuin tämän maailman uskonnolliset opettajat. Hän ei vaadi sinua ensin muuttamaan itseäsi paremmaksi, jotta voisit näin ansaita pääsyn Hänen jalkojensa juureen. Päinvastoin. Huomaatko mitä Luukas tässä todistaa? Jeesus ottaa mielellään luokseen niitä, jotka ovat syntisiä ja huonoja, ja enemmänkin: Hän ottaa luokseen ”kaikki” syntiset. Näin Hän tekee, että saisi itse muuttaa syntiset […]

13. sunnuntai helluntaista (2. vsk), Sananl. 18:4–8, 21

Ihmisen puheet ja Viisauden sanat Johdanto Kuulimme Sananlaskujen kirjasta, mitä Pyhä Henki lausuu ihmisen suusta ja niistä sanoista, joita suusta voi lähteä. Tänään pysähdymme tämän pyhän tekstin äärellä tekemään kolme huomiota: Ensiksi puhumme sanojen vaikutuksesta. Toiseksi katsomme mistä puhe nousee. Kolmanneksi kuulemme, mitä Herra itse tekee sen ongelman ratkaisemiseksi, johon me ihmiset sydämemme ja puheidemme […]